こ数年、私の生活のベースや趣味などが
“和”が中心になりました。(年齢的なことも関係があるのかも知れませんが)昨年あたりからは「食」までもが“和”です。(これは半分、健康やダイエットを考えてのこともあります。)
例えば、習い事は「着付け」や「焼物」、集めるものは「ふきん」「手ぬぐい」、朝食も「シリアル、ミルク、パン等」から、「おみそ汁、御飯(時々玄米)、煮付け」、飲み物も「コーヒー」から「日本茶」・・・などなど。




もともと外国大好き。外国かぶれしていた時期もありました。特に、10代後半から20代にかけてや、N.Y.から帰って来てすぐの頃などは、「日本人はどうして○○○○なの…!?」と日本人であることが何だかいやな時期もありました。…かれこれ10年以上も前の事ですが。今では、何と奢った考えだったのだろうと恥ずかしく思います
海外の生活を経て、日本の生活に戻ったときに感じたことは、「私は日本人なんだ。でも日本を知らなすぎる。日本人としてのアイデンティティーをしっかりもって初めて、国際社会で通用するのではないか。」と。若さも手伝ってか、ずいぶん堅苦しく意気込んでいたように思います。今は歳も重ねてきましたし、肩の力を抜いて“和もの”を楽しんでいます。

何事も同じですが、ひとつ始めると、その次につながります。私も、「焼物」を始めたことで“和”の魅力を知り、着付けを習い始めたころには、書道、日本の色、茶道、香道、日本の歴史・・・と興味が広がり、きりがありません。たくさん過ぎて、一生かかっても終わりませんね



して今、一番興味のあることは「日本のことば」。日本のことばの美しさに、遅ればせながら気づき、何とか美しい日本語の語彙を広げようと、本を読んでは辞書と格闘しています。日本語は漢字やひらがな、カタカナを操り、まずその流れが目で見て美しい。聞いていて美しい。そして、日本語にはことばそのものの意味だけでなく、その背景、季節、匂いや風などを想像させる、感じる美しさがあります
意味が相手に通じれば、理屈が通ればそれでいい、ではあまりにも悲しい。時代が変わればことばも変わって当然です。もう死語になってしまったことばもたくさんあります。が、心で感じることのできる美しい日本語をひとつでも多く学びたい、使っていきたいと思っています。